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か なさんのブログ2025年10月のアーカイブ

  1. 10/22 (水) 20:51

    先日の記事について、少し補足させていただきます。

    「好きだから歌う」っていう言葉自体は悪くないけど、“なぜ好きなのか”“どういう背景でその曲に惹かれたのか”が欠けていると、説得力がない。 歌うという行為は感情の発露である以前に、理屈と構築の積み重ね。 作品や表現の一部として筋が通っていないと、信憑性に欠ける。 つまり: •「感情」は出発点にはなっても、理由にはならない。 →最初はいいけど、繰り返し使うと「またかよ」ってなる。結果、信頼性を失う •「好き」だけでは論拠が弱い。 •作品を選ぶ・表現する以上、責任もって向き合う。じゃないと、作曲家や聴く人にも失礼。 だから、他人が「好きだから歌う」と言うと、「思考の浅さ」や「責任のなさ」を感じてしまうわけ。 言いたかったことは、“好き”を免罪符にして努力や配慮を放棄してしまう態度への違和感です。 たとえば、公共の場や第三者がいる環境で、 「好きだから」と練習や準備を怠った歌い方をする人がいます。 失敗はしても構いません。 でも、そこから軌道修正や改善が見えないのはどうかと思います。 個人練習や一人カラオケで楽しむのは自由ですが、公共の場では例え趣味であっても最低限の努力や礼儀が必要だと思います。 また、プロと名乗りながら技術や理解が伴っていない方の歌を目の前で見たことがあります。 その方は「好きだから」と言っていましたが、それを免罪符や言い訳にしてはいけないと感じました。 まとめると、好きなことは一切否定しません。 しかし、“好き”を理由に努力を放棄する態度には、共感できません。 音楽に触れるすべての人が、楽しみつつも、誠実に向き合える環境になれば嬉しいです。

    か な
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  2. 10/21 (火) 4:20

    「好きだから歌っています」「好きだからこの曲を選びました」

    といった言葉には、正直かなり違和感があります。 「好きなら、それで十分」という感情論には、どうしても距離を感じてしまいます。 もちろん、“好き”という気持ちは否定しません。 むしろ、尊いものだと思っています。 でも、そこにどんな想いが込められているのか。 どんなふうに作品や聴き手と向き合っているのか。 その姿勢こそが、本当の「好き」の深さを表すんじゃないかなと思うんです。 「好きだから」を免罪符のように使って、うまく歌えなくても気にしない、練習は気が向いたときだけ、相手の感情は二の次―― そんな姿勢を見ると、「ああ、その程度なのか」と思ってしまう。正直、がっかりします。 楽しく歌うことは否定しません。 ただときどき、「それを人前で見せて、恥ずかしくないのかな?」と考えてしまうことがあります。 自分の気持ちをそのままぶつけ、聴き手の存在がすっぽり抜け落ちてしまっているようなパフォーマンスを見ると、なんだか“独りよがり”な快楽に見えてしまい、相手にどう届くかをまったく気にしていないように見えてしまうときがあるんです。 言葉を選ばずに言えば、ちょっと過激な例えですが――まるで“自慰行為”を見せられ、こちらの気持ちが置き去りになっているような感覚になることもあります。 もちろん、「趣味は自由で、楽しければそれでいい」という考え方も理解できます。 だからこそ、誰かが耳を傾けてくれるその時間を大切にすること、自分なりに丁寧に向き合おうとする姿勢があってもいいんじゃないか、と思うのです。 楽しみながらも、誰かに何かを届けたいと願って行動すること。 それこそが、本当の意味で「好き」という気持ちが表れている姿なんじゃないかな、と思います。 作曲家の意図や作品の世界観を汲み取り、それをどう解釈して届けるか―― その過程が、音楽に向き合う理由のひとつです。 たとえば一人カラオケのように、完全に自分だけの時間であれば、感情のまま自由に楽しく歌うのも素敵です。 でも、誰かが時間を使って耳を傾けてくれる場では、たとえ趣味であっても「相手の時間を使わせてもらっている」という意識や配慮は、歌い手として欠かせないと思っています。

    か な
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